| Vol 6 |
「安い花を買う場合の基準」
世の流れは安売り一辺倒である。では、本当に消費者は安さだけを求めているか、といえばそうではないらしい。ブランドの良さも価値もわからずブランドロゴに大枚をはたいている人々もいる。また、値札の安さビックリ表示だけに歓喜して殺到する人々もいる。どうなっちゃてるんでしょうね………・・????
これは傷ものですよ、と公表して極安価格で販売する専門店がある。これは正直な商売である。また買う方も納得した上での買い物で、フェアーである。しかし、中間流通を省き、産地直結、コスト削減で安さ達成と言った向きの店は何か胡散臭さを感じるのは、私だけだろうか?販売システムでの運営コストを落す事と本当に信頼おける商品が販売されているかは別ものである。
特に花の安価販売なんぞは、この例が顕著に表れる品物である。確かに、従来の流通に比べて販売価格は下がった、と認めるべきと思うが、果たして品質は、との問いかけには、首を縦に振るには抵抗がある。早い話がチープであるべき商品を安価でさばいているという当たり前のことなのである。
そこで安いという基準はいったい何を指して言うのだろうか、という問いかけが今回のメルマガの主題である。
十円より一円の方が安いといった数字としての値なのか?それとも通常100円で売っているものがスポット的に今日は50円だよ、といった支払う対価そのものが下がり、商品価値が上がった事実を指し、対象比較できる上での安さなのか?である。
もちろん本当の安さとは冷静に考えれば後者の方だと誰しもわかることだ。しかし、哀れ人間と言う生き物は目に見える数字に誤魔化されるのである。特に質で判断しにくい花という商材は価格がなんとも曖昧な特性を持っている。もっと、解りやすく言えば価格と品質が一致しがたく、一概に価格で商品価値がつきにくいと言うことである。
■そこでちょっと、プロ的思考
十数万と言う生産者個人から送り出される花は生産組合や農協へと流れ、まとまって花市場へと分散出荷される。花は十人が十人同じ手法で栽培しても一つとして同じ物は採花できない。つまり、自然の影響を大きく反映する生産物は極端なことを言えば、作り手と同等数の花の品質が存在する、といっても決して過言ではないと思う。
それほどバラツキのある花を同じ値段で販売するわけだから、価格で正しく安いか高いかなんて判断すること自体がおかしいと私は思っている。どこの生産地のだれだれさんが、いつ作った花が同時期に100円と50円で売られた、といったように確たる裏づけが無ければ価格での評価は出来ないと言う、途方ない立証が必要なのである。また、そんな事をしても何の意味もない。それほど価格で正当な判断はプロでもつきにくく不可能なことなのだ。
だからといって消費者を無視したような流通価格がまかり通ることは避けなければならない訳ではあるが、「それも仕方が無いな…。」と思わせる値札の安さに小躍りし偏った消費を繰り返し得意満面になっている人々が多くいるのことも事実だ。
つまり、普段花店などで花を購入されている消費者の方などが、どこが安い、ここが高いといっていることは、大抵は当てにはならない。安く買った、とお思いの消費者の方。先に書いたように「傷物を公表している店」で買っていることと同等と判断しても良いと思うのだが、言い過ぎかな?
ところで、なぜ、私がここまではっきりと言えるかといえば、生産から販売までの流通過程の中で揉まれていたからである。高いところから安い販売店には流れていないということである。花を安く売るということは、安く仕入れなければならない、ということは安く(B品)提供する生産者がいなければ、安売り流通は成立しないということなのである。そうB級品なのだ!!
■そこで、安く買う究極の方法は?
それは、信頼(目利きの出来る)のおける花屋さんに「お任せするわ。」この一言に尽きる。これは間違い無い。この一言に花屋は弱い。間違っても悪い花は選ばない。あっ、それから付け加えておきますけど、センスと目利きは別ものですよ。どうも、花屋という人種は良い花と良いデザインを混同もしくは、同レベルに捉えている節が有る事をお知りおきくださいね。つまり、お客様からの意思をハッキリと伝えないと、とんでもない花束やアレンジメントを作られることになる。ご経験はありませんか?
私の経験から言えば、デザインに走りがちな花屋は目利きが疎かになっている。また、その反対で花の質や価格にこだわる花屋はデザインと言うものに主張が無い、物まねで終わる。しかし商売という観点から見れば、後者の方が広く商いが成立しているようだ。
■ 編集後記
世の中はデフレ状態で消費者物価は下がりつづけている。つまり町の商店は安売りの嵐の中に飲み込まれているのである。旧態としたシステム(高コスト体質)の中では、如何に老舗だろうが、町一番店だろうが社会が認めないかぎり、淘汰の道をまっしぐら、という構図が完全に出来あがりつつある。
消費者から見れば安い方が良いに決まっている。日本経済がどうなろうと社会環境がどの方向に迷走しようともである。裏を返せば自らの首をしめている現実も省みず、これは正直な気持ちであろう。つまり、あたり構わず、わが生活が大事ということらしい。
・古くは戦時下に一億総玉砕とばかりに竹やりでB29に立ち向かった国民性。・オイルショックでトイレットペーパーが無くなるというアナウンスに踊った国民行動・買わなきゃ損とばかりにマンション・土地の買い替えで沸いたバブル期・
最近ではネット関連に投資しなければ投資家としての資質を問われた。
これら一連の社会現象(仕掛けて奴がいる。)は終わってしまえば一体あれは、なんだったのかと思わせることばかりである。本質を見極められない思考行動が起こした付和雷同の世界そのものではないか。唆したその裏に蓄財する強かな(守銭奴)奴らもいる事をお忘れなく。
そして現在、デフレ現象である。右を見ても左を見てもデフレ社会を盾にとって「リストラ」「安売り」「価格競争」と益々、人間(個)主体の生存(生活)が脅かされている。何の為の社会生活か
何の為のコスト削減なのか、今一度考え直したい。
世界中の先進国の大方はデフレ傾向にあると聞いている。しかし、日本ほどのスピードでデフレが進行していないし、これほどの不況に陥っていない。なぜだろう?日本国だけが一向に進まない構造改革、そして景気回復。国民の誰しもが一時期のバブル景気が再び訪れるなんて思ってもみないだろう。なのに一部の既得権益者が儚い夢をもう一度とばかりに妄想を抱いて根がはえたようにテコでも動かない。
自分がまいた種は必ず花実をつける。因果応報というものである。選挙で選んで無能な政治家を生んだ結果、陳腐な政策に時間を費やし、無駄な政策に税金を投入する。また、投票拒否がトレンディーと嘯く傍観者の取った行動で、今の政治の一部がある。
公務員の受け皿とする特殊法人なんて、みんなぶっ潰しても、国民にとって痛くも痒くもないと思うのは私だけだろうか。不正所得を稼げない一部既得権益者が増えるだけである。正直者が痛い目に合う正義なんてありゃしないはずだ。
■花屋の本音トーク
毎年のことで年末商戦が終わり、つかの間の正月気分が抜けるころ、今年はこれとこれを実行するぞ!!そして、将来を見据えて改革しなければならないことを実行する、というやる気だけは人一倍旺盛である。しかし、実際に実行できたことと言えば、その数パーセントであることに気付く。
これを処理の先送りと言うのだろうか?意図的に自己をごまかし今が良ければという曖昧な気持ちではないのだが、結果として暖かコタツの行政(官僚)とお抱え運転手つきの特殊法人天下り団体役員殿(旧官僚)と同じ事になっている自分がいる。
この消費低迷黄金期。「もう俺のせいじゃないよ!!」という花屋からのコメントを嫌と言うほど聞いた。販売での策は講じた。しかし、一向に成績は上がってこない。何が悪いのかと言う自問自答をここ数年来やって来た筈だ。
そして、ここへ来てはっきりと二通りの傾向が見え隠れしている。一方は他者への責任転嫁である。つまり、政治が悪いと他力的思考で諦めの境地。また、もう一方では思考回路の改革である。つまり、既成概念を壊すことに活路を見出そうとしているものたちだ。
そこで、この不景気黄金期を抜け出すための策を上げれば、販売形態、流通経路、営業時間、人員コスト、仕入れ、価格帯、商品、消費者意識、流行と書き出せば限が無い。しかし、一つ大切な事が抜け落ちていることに気がつかされる。それは、スクラップ&ビルドの原則である。
無駄を抑制するコストパフォーマンスと同時に新生するための活動を並行してやらなければ、「おしん」の心境よろしく、蓄財(タンス預金)に走り、耐え忍び、景気回復を待つものは座して死す。
おまけ■生成流転
この世にある目に見えるものというものは、いつかは滅びる。そして、また、新たに創造がされる。この原則から言えば、腐ったものは肥やし、として大地へ戻るべきはずだが、我がニッポンの国力を上げて、なにやら再生法と言う奥の手を引っさげて、金融と官僚の悪知恵で屍となったダイエーを生き帰らせようとしている。まさに「公開ゾンビ再生法」である。これで共倒れが増える。
園芸に携わっている人は良くご存知ですよね……・連作障害を起こしているやせた土を新品種に使うようなことはしないですよね。
みなさ〜〜〜〜ん。花を買ってくださ〜〜い。これ本音。
最後に決まったぞ!!ホイ。
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