■経済学者の作文
花で生計を立てる人々にとって、先行きの展望は、と問われると些か言葉に窮するのではないか、と思う。どこを見ても先行きの不安定しか見えてこない。もちろん個々の見方で明るくも見え、暗くも見えるのだが、しかし、その見方に誤りがあっては正しいものも正しく見えない。
将来の展望を視野に入れた取り組みを行うとき、括弧とした自信と信念が持てるようなビジョンが確立できないようでは困ったものだ。そこで大切なのが情報収集という漠然と掴み所の無いこの取り組みだが必要になる。そこで何を探し、何を掴むかと言うコンセンサスが求められるのだが、これが無い情報収集は時間の浪費となる。
ところで発信されている情報のソースだが、せめて発信者のポジションくらいは掴んで欲しい。情報発信者のポジションが把握できれば、大体その情報がどの方向を指しているのか解る。そして自分達にとって利益、不利益かぐらいは把握出来るものである。そして戦略ある戦術を練って欲しいものだ。
ということで、現象をマクロに捉えることを常套手段としている結果論者で傍観者でもある経済学者の本性とそれを追従するような理想論とメルヘンチックな言葉の崇拝者のコラムニストも然りである。
著者は思う。まずは花を売ってから言って欲しいと。
そこで経済学者の作文となる。
欧米にみられるフラワーマーケティング手法をそのまま輸入して、日本の花卉マーケットでもカジュアルフラワーを推進しようとする動きが再来している。バブル経済崩壊期にその姿をあらわしたカジュアルフラワーという文字だが、その裏側に中々見えてこない大型市場とエコノミストの持たれ合いに、売上確保の戦術と歪な保身の姿が見えてくる。
このカジュアルフラワーとは十数年前、消費者に安価な花を提供しょうとする目的で、ある経済学者と農水省の肝いりで発表された取り組みであるが、その趣旨が時のバブル経済で高騰する不動産の価値を押さえ込んだ総量規制という方向とどこか似ている。
このまま花の価格が上がっては、将来の花消費の先行きを案じたらしい官僚的高所から見た遠山の金さん的裁量を乱発したお節介の副産物である。儲かるものをいくら高値だろうが買い手がいる以上、売れるだけ売ろうとする人は必ずいる。一方、そんな流れの中でも、何か違うという感性で、もっと安く売ろうとする人が出てくる。これが凸凹の社会という健全なものだ。
みんなでやれば怖くない的な、みんなが安売りなら私も、みんなが高級思考なら私も、という右へ習えとする世界の方がよほど病的だ。行政が行う医療機関のチェック機能じゃあるまいし、嗜好品の花である。結果的に安く売ろうが、高級志向だろうが消費者の好き嫌いで支持を得ることに違いはないし、行政が入り込む隙間などないはずだ。
何でも売ってやる的感覚の論理で商売を考えるからこうなる。安けりゃ消費者は喜ぶだろうという安易で横暴な固定観念が商品力と言う求心力を無くすのと同じだ。低価格の値札に盲進する消費者もうんざりするが、大切な商品力に目を向けない販売側も同等の類にはいる。また花保ちすべてがステータスであるかのような商品開発やパテント狙いの商品化も然りである。そして物まね上手で安ければ売れると勘違いした商店も苦戦を強いられる。
要するに、商品力を如何に高めたかで、いつの時代も生き残ることが出来る普遍の図式がそこにある。簡単に言えば商品力とは消費者各層のニーズにマッチしているもの、これしかない。つまり、その時々に消費者の望む商品がタイムリーに供給できたかである。本当を言えば花が安い・高い・保つ・保たないではないのである。もう、安い高いや保つ保たないの時代は終わり、生活シーンにマッチした商品をどのように提案していくかが次世代の花卉業界の勤めであると思う。
とどのつまり、目に見える物質、商品にこだわるという旧態とした玄人世界の道は基本的スタンスとしての地位を固めつつ、消費者各層の生活シーンに最適な提案なくしては、どれほどの商品開発を行っても、また大量に生産行おうが、どれも袋小路に入ってしまい、結局わけのわからない消費者利益と言う曖昧な言葉に振り回され自己を犠牲にして偽善的奉仕の精神がサービスと勘違いしてしまうのである。
これを具体的に言えば必要な本数、必要な時、必要な用途、適正な価格で消費者に売場を提供し消費者各層へどれほど満足させられるとかという販売戦術をどう楽しむかで、その販売者の能力も磨かれ、発揮されるのである。
農政の都合で、生産の都合で、物流の都合で、また、小売商の都合でという業界という言葉の弊害をいかに早く打ち捨て、日本中の家庭で花を楽しんでもらうという大志の下で花ビジネスに携わっていくべきだし、そうしたことがしストレスの無いビジネスシーンと考えるべきである。そうでないと総合的利益は出ないということも云える。まじめに頑張れば成果は必ず出るとされた精神論的販売手法では人は育たないし、消費者の支持もない。
花なんていうものは、趣味の世界である。また、感性の世界でもある。そんな嗜好品を只、輸入しただけの安っぽマーケティング論を唱える某先生の作文に付き合って安売り一辺倒の世界に引きずり込まれること自体、歪である。また、カジュアルという規格の花を作ろうとすること自体も同じである。
メーカーの本質は際限のない品質向上にある。そして価格の引き下げという商業の本道を並行してやる取り組みこそ本当の進化である。わざわざ品質を下げる取り組みに無駄な資源を使うことは、心の病に外科手術のメスをいれるようなものだ。
また、時代はデフレで消費者は安価を求めている、というオウムの如き、台本を棒読み連呼する量販店の無策な安価論に振りまわされては、たまったもんじゃない。なぜならば、彼らは消費者利益と高らかに謳いながら、商売の根幹を成す純利益を机の中に仕舞い込み、売上高第一主義という数字しか考えない近視眼的思考であるからだ。
生産者を守り育て、且つ消費者への利益提案、且つ本体である自社の成長も視野に入れた三位一体の取り組みをしなければ、間違いなくこういった輩は衰退激しい某大手流通企業に代表される生産者(メーカ−)泣かせに成り下がり、物まねこそ我がノウハウという墓穴を掘ることになる。また、海外からの安さを求めて、安価一番という片寄った思考は、自らの技術、産業を滅ぼしてしまうことは確実だ。
世界標準という数値のアベレージ化を目指すことは決してグローバルスタンダードとは私は思わない。本来のグローバルスタンダードとは気候、土壌で文化が生まれ育ったように、その地方必然の結晶だ。つまり各々の産業、歴史を尊重し共存を図る取り組みこそ真のグローバルスタンダードだと思う。言葉だけのグローバルスタンダードを高らかに唱えると本末転倒という道を
歩むことになる。価格の世界標準なんてものは妄想に過ぎない。
話は戻って、私達花産業で成合を経てる人間にとって買ってくださる消費者がいるという大前提の上にたち、また花産業を支える生きた人間、生産者がそこに要る事実を忘却してはならない。「箱根山籠に乗る人担ぐ人、そしてわらじを作る人」という三者がいて始めて社会は機能するのである。
この言葉を歪な市場運営に従事している人々に考えて頂きたい。また、売上第一主義の経営者には退場願いたい。小売商を育て、生産者を育成する使命こそ中間業種である市場の真の姿である。そのために公共の施設を安価で借り受けているはずである。
■ 基本中の基本
「良品を安価でお届けする」というお題目のように云われつづけた商いの定義は今始まったことではない。商業という言葉がこの世に現れた時から普遍である。そういった普遍的取り組みの商行為は誰しもがトライしてきたことである。そして、結果としてこの行為を確実に実現でき、消費者に支持を得た人がはじめて成功という二文字を獲得できた。これは、将来も普遍であろう。
では、なぜ普遍的成功の法則を誰しもが実現できないのか、という部分にへそ曲がりな著者は興味をそそられる。
ところで巷ではこんな声が聞こえる。
「今更よ!大学出の若造に花の産業構造の歪さを指摘されても、聞く耳を持たないよ!」と、長年培って来た業界人の多くの本音はこれだろう。また逆に、「まったく古い奴は仕方がない。勝手に淘汰されればいいんだ!」と決めつけることは簡単だが、先に生まれてきたのだから古いに決まっている、と天邪鬼な著者は屁理屈をこねたくなるのである。つまり、古い奴という批判を展開するものには論点が定まっていない。だから話は前へ進まない。なぜ聞く耳を持たないかという原因を探る取り組みの方が大切であると思う。
頑なに変化を拒む姿勢の人々を旧態派と呼ぶならば、新派の人々は変化しないことが悪という定義で論じていることに成る。また、自分の利益しか考えていないから世の中が悪くなるとするモラル欠如も同じである。まあ、捉え方としてモラル欠如を悪という主張はある意味を的を得ていると思うが、そのことだけを集中砲火のごときピンポイントで攻め立てても解決はつかないし論点がピンボケになってしまう。
世の悪者として捉えられる旧態派だが、旧態派には旧態派なりの言い分もあるし、なぜ彼らが改革を拒み、利己主義に走るのかを解き明かさないと、本当の前進はないと切に感じる。
もちろん保身としての新しい取り組みを今更始めたくないという思考はその人の権利であって、他の力によって侵されるものではない。しかし、新たな取り組みによって、更なる利益を手に出来ると知ったならば、そのフットワークは亀の歩みに近いかもしれないが前へ進む筈である。
私の云いたい事とは、その原因が情報の不確実性にあるのではないかと思う。もっと悪い言葉を引用すれば、情報操作されている。花の業界でも実は適合できない仕組みがあるから出来ない、これだけである。つまり情報操作された世界に育ったからである。偽った情報でマインドコントロールされたと言うことでもある。そこには信頼、お互い様という思考回路はなく、猜疑心うごめく世界が創生されるように仕組まれているということである。
ところで皆さんはこういう経験はございませんか?特に市場でのセリに参加されている花屋さん。「もう無いよ!」「これで生産は終わりだよ!」「出てこないよ!」「こんな価格では生産者は死んじゃうよ!」「今年の菊は、カーネーションは品薄だよ!」と頻繁に聞かされているアナウンスが無意識のうちに耳に入っていると思います。実はこれら市場側から発せられる言葉という情報は買う側の小売商の潜在意識の中に知らないうちに蓄積されているのです。
そして、物日などの普段よりプレッシャーを感じる仕入れの際に過去のこの情報が反映してくるのです。良く考えて思い出してください。セリに立ち会うときのご自分の心境を……。「買えなければどうしょう?」「どうにか安く仕入れたい。」と内心、口には出さないがあるはずです。この意識が先ほど書いた潜在意識です。この潜在意識の作用が市場側の望む戦術なのです。
この時「上手く安く買えたらどうしょう?」「儲かったらどうしょう?」と肯定的に楽天的に考える人は変人です。でもこの変人のパターンが成功者の特徴です。
そうです。楽天的に夢追い人のほうが成功する確率は高いのです。
それはなぜか?成功したときの場面を想像しているからです。
ものの成り立ちは想像と言う思考から始まり、次に現象として形が作り出されるということから明らかです。つまり失敗の場面ばかり考えている人は失敗の確立は高くなります。その逆に成功のことばかり考えている人は成功する確率は高くなると言うことです。ネガティブな泣き言ばかり言っている人よりも楽天的な脳天気な人のほうが話していて心癒される感覚になるのもそのためです。
また、こういう考え方もあります。マインドコントロールして誰が得をするのだろう?西側東側という東西冷戦の時代に代理戦争と言う言葉がありました。そしてこのとき誰が利益を手にしたか?それは「死の商人」つまり軍事産業です。彼らは中間でお互いの感情をあおり、影では双方から利益を搾取していたと言う構図です。
ちょっと例えが乱暴でしたが似たような構図は市場流通に存在します。生産農家と小売商に偽った情報を市場が提供しさえすれば、小売商と生産者はお互いにほのかな敵対心を育みます。市場は双方に好い顔してればすみます。そして生産者と小売商との間にこんな感情が芽生えます。「相当な掛け率で儲かっているのに、何でこんな相場しか出ないのだ!」と生産者は小売商に怒ります。一方小売商は「いつも希望価格ばかりで、いくらで買えば生産者は納得するのだ!」と、どちらも自己中心の主張です。
それは極自然な感情移入です。だって間違った情報を元に相手を分析すれば誰しも猜疑心の塊です。つまり、つかず離れずの関係を曖昧に繋げていることこそ中間業種である市場の戦術なのです。
ということで中間業者の戦術をご説明しましたが、そこにアナウンス的役割をになうのがエコノミストです。
生産者から多くの荷物を依託という形で販売を行い、販売手数料なる報酬を手にして営業を行っている花市場としては生産者の出荷物が原資である。その原資の確保に如何にも時代の主流であるかのように相場が下がっても、その分の対応をコストダウンや生産の効率化または商品力の向上しか無いと唱えながら安易な安売り論をかざすのである。
確かに時代を反映した取り組みであるかのように聞けば聞けないことも無い。時代に適応しろと言っていることぐらいはわかる。しかし、本来真っ先に変わるべきところは市場そのものである。市場内販売の姿勢は旧態とした売り手優位の意識で小手先のハード部分をいじっただけでわれわれは最先端(基幹市場)という思い込みもここまでくればバカの一つ覚えである。
旧態としたシステム(市場関係者全ての意識も含む)の中で増大する生産物、そのために荷物があふれる現象が゙起きている。またデフレの影響、消費者の意識変化といった社会現象を武器に、カジュアルフラワーの提唱など、安売り量販店に加担するようなポジションを取る。
そして最後に生産地への安価も致し方ないという言い訳は、これら全て中間業種である市場流通の存在価値を訴えるための方便である。全ては時代に逆行する生き残るための戦略無き戦術なのである。売れれば売り先問わずという、中立を無視した卸売り市場のモラルの低下以外の何者でもない。
そう言った市場経営は市民の税金で設立された公的施設を使う資格はないと考えたいのである。要するに公共施設も含めて全ての運営を民営にするべきである。市場法という規制下にある手数料の率は守られ、相場の下降は時流という逃げ道を作り、ゴミ処理という管理費は買参人に分配して、中間業種である市場だけが肥える構図の方が誠にもって歪である。
自由競争を建前とした資本主義の原理で考えれば、妥当であると自らの取り組みの正当性を唱えることは決まっている。そして弱肉強食という勝者の論理に陥ってしまう。そこには食物連鎖や自然の営みを無視した、強欲な人間のエゴが見えてくる。自らの考えたシステムが正しく、そのポジションは自らの力だけで手に入れたという錯誤をうむのである。
■編集後記
昨今の花市場に見る施設の近代化や情報技術の恩恵のインターネット取引で時代の変化を感じますが、中で従事している人々を見るとアンバランスな感覚を感じることは否めません。挨拶に始まり言葉使い然り、陰日なたある経営者の姿が現場で働く彼らから垣間見ることが出来ます。
現場で働く一社員の言葉は経営者の姿を如実にあらわし、営業会議などで発言する言葉尻が正確に現れる。つまり市場経営者が生産者を、そして小売商をどうのように見ているかという本音の部分が見えると言うことですね。
■ 花屋の本音トーク
本質を見ないで、目に見える物質にしか目が行かない人は花市場の本質を物流規模や施設、また買参人の数などで見てしまいがちです。しかし彼ら市場が運営できるのは、生産者と小売商を情報で繋いでいるからです。解りきったことですが、彼ら花市場はメーカーではありません。どこにも換金できるような商品は持っていません。
実際には販売手数料という売買の代行を行ったことによる報酬を得て運営されているのですが、ここでよくよく考えて見てください。その代行を行うためには生産者との連絡を密に行い、どこの産地にどのような花があるかという情報を収集しているのです。また、その情報を開示することにより買参人が集まる市場になるのです。
つまり、この情報がなければ彼らの花市場の経営は成り立たないのです。情報こそが彼らの原資なのです。その情報を上手く開示したり隠したり操ることにより、売上の報酬度合いが違うということなのです。
そう云った真理があるため小売商と生産者が直接繋がるのを市場は極端に嫌います。当然ですね、市場を介さないで直接繋がるということは彼ら花市場の存在価値がなくなることを意味します。つまり流通を制御できない只の物流センターになるのです。それを回避するために全国の出荷団体と関係を保とうとしているのです。その尖兵がインターネット取引です。
しかし、このインターネットというツールは全ての人々に公平にその利益を提供します。大企業だろうが、町の小さな商店であろうが、同じ土壌で戦うことが可能なのです。つまり誰にも公平にチャンスはあるということになるのです。目に見える物流や施設にばかり目を取られると、こう云った本質を見失ってしまいます。
そして、いつまでも中間業種である市場優先の利益傾倒の方向を許すのです。この歪な関係を是正するのには、自らの手で情報を配信するしかないのです。新たな情報流通の道を作るしかないのです。
現在の市場流通で苦渋を舐めている皆さん頑張って下さい。
■■ 余談 ■■
朝日が黄色に見え、体には大変なストレスと負荷をかける非健康的な行為、徹夜マージャンです。この徹夜マージャンを有料雀荘でやったことある方はお分かりだと思います。睡魔と戦い弱る体に鞭打ち必死にパイを掴みロン・チーと争って勝敗という結果はプラスマイナスゼロです。結果的には場所を貸す雀荘のおばちゃんの勝利です。
なんか中間業種の市場の構図と似ていませんか?
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