HOMEへもどる 花大学.com
もっと早く情報をご希望の方はメールマガジン登録するにはこちら NEXT
Vol 68   2004/4/13 配信済

■ 「猜疑心」

疑う事の結末

人を疑う事から始める人は必ずだまされる。混沌とした社会の中、自分だけが生き残ればよいという思考にどうしてもなってしまう。自分は自分で守るという原理原則からいえばそうなるが、これは論理のすり替えで言い訳である。

いつも身構え、自分の欠点を隠すことに傾注し疑う心を養成すればするほど、その場と違う雰囲気を持った自分が居る。そういう人ほどトラブルに巻き込まれ易い。仕事にしても、人間関係にしても疑う事から始めると決して良い結果は期待できない。
疑われているなと思えば、誰しも心など開くわけがない。

また、何か相手の弱みを掴む事で“仕事が出来る人間のように思う”こと自体滑稽である。また、そういう人間ほど、臆病で猜疑心が強く、人のためになるような仕事は出来ない。

少し脱線するかもしれないが、そのいい例が海外旅行だ。そこは非日常の世界。いつもと違う精神状態だ。警戒心と開放感が複雑に存在する世界。普段の日常ならば財布の場所など探す事をしないはずだが、それがなぜか気になって、何度も財布の場所の確認を行なう。これがもう普段と違う。

悪い人どうぞいらっしゃいというシグナルを出している。ところが、トラブルにあった人ほど、この理屈はわからない。「いつも以上に気にかけて用心していたという論理だ。」自分にはまったく落ち度がなかったと言う思考の組み立てである。

また、追突事故によくあう人もこれに当たる。「運転している時に後ろまで注意できない。」という。もちろん、絶えず後ろを見ながら運転する事は、余程のことがない限りしない。しかし、追突されるほうが追突する後ろの車のタイミングを狂わせているということに気がつかない。もちろん、こんなこと道路交通法で定める事など出来るはずもない。


法治国家として議会制民主主義の多数決や法律というルールがあるからといって、それですべて済んでしまうというのも早計だと思う。49対51で多数決の答えは出る。反対の49は果たして無であるかと言えば、絶対に無であると真意からして言い切れる人はいないだろう。

しかし、多数決制は無である。そういった正否の際どい議会制民主主義なかで、例えは少々乱暴だが、先に上げた人の財布に手をかける人や追突する人が100%悪とも言い切れない。

つまり、たとえルールがあるからとしても、結果としてそのルールに従う事は大切な事だが、すべてのすべてが、このルールはパーフェクトとする考え方まで、意固地に固定する必要がどこにあるのだろうか。

そういった意味において、猜疑心の多い人ほど、一見逆に見えるが、このルールにすべてのすべてを委ねる傾向があるのではないだろうか。もちろん、これだけですべてを結論付けようなんどは甚だ思っては居ないが、こういった一因も存在するという柔軟な視野が必要ではないだろうか。


現在の経営はリスクヘッジを必ず念頭において戦略的な展開を見せる。これは決められたマニアルの如くのようだ。

商売の世界で「損をして得取れという」言葉がある。また、情報を提供して初めて人は信じてくれる。一人勝ち的な独占的シェアを持つ場合などは異なるが、兎に角新規顧客獲得のためには湯水の如く予算をばら撒きが鉄則のように使われる。

企業という組織の存在意味と言おうか、企業の目的が何であるか。自分の勤めている会社が儲かろうが、儲かるまいが自らの生活権を請求する組合、過酷な業務を押し付けコスト削減しか考えない経営陣、また、顧客利益という商品を送り出すよりも自社利益を優先するパフォーマンス。本当の目的を・・・・・・・間違わぬように、嗚呼、間違わぬように。


自分の言葉で、自分の思いを表現する、という事は限りなく難しい。自分の言葉だと思い発言していた事が、実は世の中に氾濫する情報をアナウンスしたに過ぎず、気がついてみるとステレオタイプの自分がいたという経験は皆さんには無いだろか。

世の中のしきたりや習慣、形骸化著しい仕組みも、大多数が行っているからという理由で何の不思議も疑問も感じず、そのまま場当たり的に馴染んでいる自分がいる事に皆さんは気つくことはないだろうか。

その一番いい例が、テレビなどのマスメディアから流れてくる情報だったりする。ある書物で人間の性格形成は環境に大きく左右されるというのを読んだことがある。

人として男女の別で生まれる。また、親の子として生まれる。この事実は誰しも避けては通れない。また時代がどんなに変化しようが、この事実は受け入れるしかない。その中にDNAという染色体遺伝子を感じる。


しかし、性格は生まれもって備わったものではないと私は思っている。環境の変化や無意識のうちにも一方的に情報は私たちの感受性に刺激を与え入ってくる。ある社会心理学のテストで、明らかに間違った答えだとする確定があるにも関わらず、その間違った答えを選択する人々が自分の周りに存在し、その数を増していくと不安げながらも、また疑問を感じ取りながら間違った答えの方へと人間はなびくという実験結果が出ているそうである。そして、最後には体制へと同化してしまう。

「みんながやっているから・・・・・。」
「みんながそう云っているから・・・・・。」

特に組織で活動を強いられるサラリーマンには痛いほど感じる言葉と思う。しかし、ここでいう“みんな”とは案外と少数であったりする。


さて、ここで少し考えて頂きたいのだが、どんな世界でもアントプレナーな集団はある。馬鹿にされ、見下され、反対され、しかし、強い信念を持って我が信じた道を突き進み未知なる世界を切り開く、これらの勇気や行動力は一体どうやって培われるのだろうか。

ビジネスの世界でも、今を成功している人々は必ず、この勇気と行動力を持っている。また、多くのこれら成功モデルは大きな抵抗を受けながらも強いリーダーシップを持ったものが居てスタートし今をなしている。

しかし、そこにはある成功の法則がある。それは誰もやらないことを、また、誰も知らない事を始めたという法則だ。だれもやっていない事だから、だれも先のことはわからない。調べようにもその実例がない。だから、反対されるし賛同者も少ない。やりながら思考と改善を繰り返すというケーススタディで邁進するしかない。

ひょっとして反対される方が成功の道だったりして、と天邪鬼な著者は思ってしまう。皆さんは如何ですか?


多くの人々が集まれば、そこには大きなマーケットが成立する。しかし、競争相手も最大値に近くなる。競争が激しくなり利益獲得の比率が大きく下がる。また、生存も厳しく優勝劣敗もはっきりする。これが、自由主義社会の競争の原理と経済学者はいう。


しかし、この競争社会を避けてきた人々が先の成功者の典型である。このメルマガを読まれている人々は、恐らく多くの方々が成功を手にしたいというアントプレナー的な人々ではないかと思う。ならば、なぜ確立した仕組みの今の大企業のまねをしょうとするのか疑問が湧く。

見本とするならば、これらの成功者の創設期にこそ学ぶべきものはあると思う。その学ぶべきものとは、競争を回避して利益を出すという場と仕組みを作り出すことである。

つまり、確固とした利益抽出の組織、仕組みを作り上げた、これらの成功者の現状からはもう学ぶものはないと思う。だってもう彼ら成功者は競争の中にいるのだから。成功者の創設期の取り組みにこそ本質は隠されているのではないだろうか。

現状の花卉産業はひとつの成熟した仕組みになりつつある。その成熟した流れの中に、新たな利益を求めても限りなく少ない。新たな利益を求めるならば、新たな仕組みを作るしかない。

「花は市場で、また仲卸で仕入れる。」
「お客さんは花の美しさよりも鮮度を求めている。」
「高いより安いほうが良い。」
「お客さんはボリュームで価値を測る。」
「小さな花屋はますます淘汰される。」
「量販店やスーパーの花が小売では主流になる。」
「輸入の安価な花が増える。」
などなど、もっともなお話である。
どこにも疑う余地の無い結論である。

だが、この結論通りのステージで勝負しても、結果は結論通りになってしまうという事だ。そうなりたくなければ極論だが逆をやればいい、という思考が働く。あとは利益を生み出す仕組みを探し作る事だ。



今回はこれで終わりです。
では、また次回をお楽しみに。



*********************************************************************
■ 編集後記
*********************************************************************


動機なんていい加減なものが多い。
世のために、また人々のために・・・・・。
成功すれば何とでもいえる。

世界の三大宗教がそうであるように、開祖は単純に良い世界を
作ろうと願って行動した。

その後を継承したものたちが、組織存続のために
様々な掟を作った。
その中に抑制という掟がある。
勝手なものだ。

自分自身が神仏であると思えばよいのにね。
みんな、みんな欲はあるよ。
欲がなければ生きていけないのにね。


*********************************************************************
■ 無手勝流師範 (勝手気まま!)
*********************************************************************

鳥インフルエンザの養鶏場、目先の利益という保身からでた過ちで、老夫婦の犠牲をだした。これはこれであってはならないと思う。もちろん,死をもって償うという行為は諸手をあげて賛成はできないし、死んだからといってすべてが許されるというも問題でもない。

また、何かと話題を提供してくれる村上龍の云った「なにも死ななくても・・・・」という感情の方が強く残る。また、この養鶏場から出た鶏で死人という犠牲は出たのだろうかという素朴な疑問も残る。

マスコミの正義という大義名分で、すべての悪は世の中に曝け出し退治するという虚勢から生まれる強者と弱者の関係、また、その報道に追従するように「正義我にあり」という国民感情に些かどうかと思う。どうしてこの国は弱者を心底痛めつけ、廃人として葬らなければ気がすまないのか、と不思議に思う。

そこには弱者救済という思いは無いのだろうか?鳥インフルエンザが出たことは彼らとっては被害者であり、そこに被害者意識の象徴とする保身が働いたという展開は予測できる範囲の行動である。

また、多くの従業員の生活を思うと「俺は絶対にこの養鶏場のようにはならない。」と自信をもって対処出来る人は一体、この日本にどのくらいいるのだろうか?

ありもしない大量破壊兵器を根絶する大義名分で、幾人の民家人が尊い命をなくしたか、また、過去の争いの過ちで幾人の名もない人々が命を落とした事だろうか。しかし、命令を下した時の権力者はそれを悔いて自らの手で命を絶ったものが歴史上、居たのかと皮肉を込めて思いたくもなる。

それを思うと、多くの信頼を失ったという人間としてのアイディンティティーで死という形の償いを自らの意思を全うした老父夫婦に冥福を祈りたい。それにしても社長を逮捕し裁くという行為をあまりの速さで電光石火の如く実行した責任官庁の姿勢に違和感を覚えた。

強く言いたいことは、人間本来備えている適応能力、自然治癒力の理解も行使もせず、闇雲に便利と過保護という安易な放任で賞味期間という曖昧な判断基準をすべての食物に適応するかのごとく、また、色、形が市場で高く売れるという商取引でしか意味を成さない農産物評価を正等な評価と錯覚する流通業者と偽善的な正義感を大儀とするマスコミに踊らされたこの国の消費者感覚に警告を高らかに鳴らしたい。

真剣に安全で美味しい農作物を厳しい環境の中で育て、食べて欲しいとする農家は多く居る。そのような嬉しい物を提供する農家に正当な評価を与え支えていく国民であって欲しい。また、農薬まみれの花も然りである。肌に敏感な人ほど経験はあるはずだ。花を触った後の手荒れに。



HOME 目次へもどる NEXT

著作権は「オフィス花大好きどっとこむ」に帰属するため、掲載記事を許可なく転載、複製、流用することを禁じます。
Copyright (C) 2004 〜2007http://www.hanadaisuki.com. All Rights Reserved