花屋になりたいあなたへ 「空間と花」
好きなように活けてごらんと花をアレンジしてもらいます。しかし、生徒たちの手は中々進みません。そして、やっと出来た作品は型通りに収まります。下手でも型通りでなくても良いと思うが、そこには感動も感激もありません。とあるフラワーデザイン教室の先生の言葉が印象的でした。
そこで、皆さんは花を活ける時、一番先に思い浮かべることは一体なんでしょうか?これが今回のメルマガのテーマです。
例えば、花束にしろアレンジメントにしろ、作品(商品といってもいいのですが)を制作するときキャリアの少ない人は時間がかかります。また、出来あがりも期待薄で終わります。また、キャリアは十分ある出来上がりも早い、しかし、納得できるような作品が少ない。また、その時々で出来映えが、まちまちと言う人が多くいます。実はこれら二通りの人たちは、ある共通の欠点を持っています。
ところで教科書もない、システムもない、約束もない、期限もない、真っ白な世界におかれたら、あなたはどうしますか?また、お任せで真っ白な注文が来たら、あなたならどうしますか?きっとあなたなりの経験と知恵で、見てくれる方(お客さん)に喜んで欲しいと思ってアイデアを搾り出すのではないでしょうか。
解りきったことですが、物を造るという動作に入る前に必ず最初にあるものは、あなたの創造力(イメージ)なのです。つまり、先に上げた二通りの人たちの欠点とは、自分のイメージが出来ていない、というものなのです。
それも鮮明にイメージされていないのです。イメージがピンボケのまま制作に取り掛かっても結果は期待できません。また、出来映えがまちまちと言う人も一点にイメージがフォーカスされていない。それが原因なのです。
そのイメージとは鮮明に描き出さなくてはなりません。もちろん色から形までです。中には時間も入っている人がいます。そのイメージ作りに時間を費やす、これがデザイナーの仕事そのものではないでしょうか。後はイメージ通りに手を動かせれば、、鼻歌を歌いながらでも作品は見事に完成します。そうです優れた才能とはイメージが明確に描けるかと言うことなのです。
いけばな然り、フラワーデザイン然り、花の各種教室などで与えられるカリキュラムに添ってステップアップする。それは技法と言うものを習得するものです。教えられる技法からは創造と言う世界でのイメージは与えられません。あくまでも過去の造型の復習という行為なのです。そこには未来を空想するという世界はないのです。
ところで、生徒も先生も自己の発想を枠の中(空間)に閉じこめようとしていませんか? また、技法に活路も求めていませんか?思い出してください。大切な基本と言うべき発祥点を。
では、そのイメージを鮮明に描き出す方法ですが、ある人は野や山といった田園風景などの自然を体験しなさいと言います。もちろんそれも一つの方法ですが、これもやはり技法に過ぎません。実はいつもの生活の中にその方法はあるのです。それは、感受性を鍛えると言うことなのです。つまり、五感を研ぎ澄ますと言うことです。
具体的には、食事をするときは食事のことしか思わない。花の水揚げをしているときは水揚げのことしか思わない、と言うことです。是非やって見てください。これは生きる上で大切なことです。明確な意識を持って、その目的に集中することが出来るようになるとイメージは驚くほど明確に、あなたの意識の中に映像として出てきます。後はその映像どおりに手を動かせば良いのです。仕事は速く、且つ、すばらしい作品が出来るようになります。
そして、野や山へ自然の中に身を置いてください。今まで見えなかった自然があなたを待っています。そして、感動があります。そして、その感動はいつまでもあなたの潜在意識の中に蓄えられます。そして必要な時、その感動が涌き出てきます。それが作品です。造型の復習という行為のカリキュラムからは、決してあなたの作品は出来ません。
本来、創造する世界の中での空間とは、物が動いた後に出来るもの、と私は思っています。つまり、定め与えられた形の中にある領域が空間ではないのです。与えられた領域を自らの発想で動かす、その後に出来る領域(空間)こそが、あなたの作品なのです。
「空間とは埋めて行くものではなく、開放するものなのです。」
これがデザインと言う世界の空間の捉え方だと私は思います。
芯 副 控 で代表されるいけばなの世界。トライアングル、ラウンド、というフラワーアレンジメントの世界。また、野に咲く自然花を創作してこそ本来の姿とする投げ入れの世界。要するにどれをとっても形としての物を持っています。これら形作られた世界には過去において、それを作り出したすばらしい才能を発揮された開祖的人々がいます。しかし、そのすばらしい世界も、残念ですがフィクション化してしまう瞬間があるのです。
その瞬間とは、みなさんが作り出すイメージなのです。これはこうしなければならないという先入観と言ったほうが解るかと思います。その先入観こそが、人間として与えられた考える力。想像力という活動を奪ってしまうのです。先に形に囚われると空間も形として固定されます。
丸だろうが、三角だろうが、四角だろうが、形あるものに囚われることなく、結果としてこれらの形に収まったと言うことが枠に収まらないと言うことではないでしょうか。
■ 編集後記
実は日本古来のわび、サビ、間という意味が私は未だに解りません。また、説明されたこともありませんし、教えを乞うたこともありません。「道」と言う字がつくものを修行された方やそれを極めたとされる人たちは多くいるでしょうが、まだ、私に解りやすく説いてくれた人はいません。やはり、仏教で言われるように「不言文字」と言うことなのでしょうか?自分で何年もかかって修行しなければ出来ないものなのでしょうか?
読者の方で教えていただける方がいましたら。メール頂けないでしょうか?
■花屋の本音トーク
現在の学校教育現場での参考書は答えが用意されています。つまり正解とするゴールが設定されています。これはこれで習うと言う学問としての訓練ですから仕方ありません。しかし、子供たちの成長の過程において、このひとつのカリキュラムという固定された概念を大人たちの先入観を盾に全てを押しつけようとしていませんか?
子供たちの脳は大人たちが思うより以上にピュアです。枠はありません。自由奔放な発想でものを組み立てます。そのピュアーな脳へ偏った大人たちの都合を押しつけようとしていませんか?
そんな大人たちの勘違いが原因で、ご機嫌を伺うような、要領の長けた子供が育ちます。また、便利、保護、安定という世界を先に与えてしまうと子供たちの考える力が退化してしまいます。
ものの仕組みを解き明かそうとする原点を失い、丸覚えの能力だけを歪に成長させます。そして、道しるべを与えられないと何も出来ない大人へと成長するのです。つまり精神自立が出来ないと言うことです。
本来、人間は生まれたときは皆同じ能力を持っていると私は思っています。それが「出来る」「普通」「出来ない」と年月を重ねていく過程で決定されて行くのは、要するに応用率の世界です。向上心、探求心、生存するための本能という様々な心の動きを人間生まれもって寄与されされています。また、暴走を制御するための理性。その心の動き、つまり、その応用率を高めるために学問をする、ということの大切さを教えると言う行為そのものが教育であると私は思います。
■おまけ
花はひとつの道具であって、人間本来の発想という力を導き出すものだと思います。。前でも後ろでも動かす。するとそこに空間が出来る。その空間を作り出すこと、それすなわち創造と言うものである。発想、この心の動きが人間にとって最も大切な仕事である。絵を書く、字を書く、物を造る、全てはこの心の動きから導かれる。
その心の動きを外圧によって、枠の中に閉じ込められたら、人間は果たしてどうなるのか?考えて欲しい。忘れないで欲しい。思い出して欲しい。
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